no.13 お金事情
旧フランス領の共通通貨でユーロとの固定レート
カメルーンで使われている通貨は、FCFA(フランセーファ)といいます。フランがつくことからわかる通り、フランスが作ったお金です。
旧フランス領の西アフリカや中部アフリカは、このFCFAという通貨を使っている国が10か国以上あります。またその中でも大きく2グループに分け通貨が使われています。なので、カメルーンは中部アフリカに分類されと、チャド、中央アフリカ共和国、赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国と同じ通貨を使っています。
おそらくそれぞれの国で使われている通貨もそのグループ内では自由に使えます。お札に「U」とあるのがカメルーンで発行した印です。他の国なら違うアルファベットが刻まれます。
またこの通貨は、ユーロに対して固定レート1ユーロ=655.957FCFAとなっており、僕がカメルーンにいた頃にも、このレートでFCFAの価値を2分の1にするなど、フランスがとんでもないことを言ってた噂を聞きました。
そんなのを聞くと、今でもフランスの植民地なんちゃうん?て思ったりします。
他にもカカオや木材の出荷レートをフランス系が決めたり、大規模工場の建築するのにフランスの許可が必要と言われたり、政治的にも経済的にも自立ができない状態になっている感じがします。
途上国だから物価は安い?
答えとしては、安いものはめっちゃ安い、高いものは高いです。
まあ、簡単にいうと、輸入品は高い、農作物や家賃、カメルーン内で完結するものは安いです。(およそ5FCFA=1円の程度です。)
例えば、
・玉ねぎ 50FCFA=10円
・トマト 50FCFA=10円
・フランスパン 100FCFA=20円
・ペットボトルジュース1L 500FCFA=100円
・村の食堂1食 500FCFA=100円
・パイナップル大(村) 500FCFA=100円
・ビール大びん 600FCFA=120円
・タクシー近距離(1メーターくらい)500FCFA=100円
・ガソリン1L 600FCFA=120円
・家賃2LDK(都市部) 50,000FCFA=10,000円
・家賃2LDK(村) 20,000FCFA=4,000円
・格安携帯(中国製) 10,000FCFA=2,000円
・プリンター(HP、10年前のもの) 40000FCFA=8000円
・コピー白黒1枚 50FCFA=10円
・牛肉ヒレ1㎏ 4000FCFA=800円
・鶏1羽 3500FCFA=700円
・トヨタ中古車(50000㌔) 7500000FCFA=150万円
・深井戸設置 6000000FCFA=120万円
・村人の平均月収 50000FCFA=10000円
・公務員の平均月収 150000FCFA=30000円
・中国企業の中国人の給料上位 3000000FCFA=60万円
・僕ら協力隊の支給生活費 300000FCFA=60000円
これは村価格も入れてるので、都市部より安いかもしれません。
なので、だいたい、食料品は5分の1か4分の1、ジュース、ビールなどは2分の1、家賃は5分の1以下、タクシーは5分の1以下、ガソリンは同じくらい、電化製品はちょっと高い。
くらいですかね。まあ家賃といっても、日本と比べたら全然レベルの低い内装設備で水も出ないことも多いですし、タクシーも相乗りなんで安いですし、電化製品は型落ち古いものでも日本で買うより高かったりします。トヨタの中古車なんてほんまに高くやり取りされています。
また、給料は、もう村では有って無いようなものですが、およそ農家50000FCFAあれば稼いでる方です。大抵はそれ以下です。
公務員の給料も高い人で300000FCFA、平であれば100000FCFAもありません。ほとんどが畑も経営して兼業しています。僕らの生活費もその公務員の給料が基準とか、結構高給取りに分類されます。
あと、村にできた中国系の国営企業の給料を聞いた時はびっくりしました。月30万円越えは普通です。上層部は60万円以上とも聞き、そこで働いているカメルーン人のエリートも30万円ほどもらっていると言っていて、結構もらってるなって思いました。そこでアルバイトで警備員として雇われている人は1万2千円ほどらしく、格差も感じました。
まあ、お金の価値って場所が変わると変わりますしね。
ほんとお金は難しい。
no.12 救われた言葉
「お前だけが特別じゃないよ」
これがカメルーン生活の中で、一番救われた言葉かもしれません。
僕は住んでいた村で初めて長期間住んだの白人(一応)。そのため、みんな僕のことがお金に見えていたのかもしれない。
いやこれも自分の思い込みだったと、後になってから気づきましたが。
なので、すれ違い際に「金ちょうだい」、お店に入って隣の席の人に「おごって」、お店で買い物している時に「私の分も払って」、断ると「なんで?」「じゃあ、何かちょうだい」。
これが毎日でしたね。確かに僕は生活費としてJICAからそれなりのお金をもらっているし、そもそも日本人やからお金を持っているように見えますが、理由もなくお金を払う気なんて、さらさらありませんでした。
挙句の果て、カメルーンに来て1年が過ぎた頃には、イライラしすぎて相手の胸ぐらをつかみに行ってました。さすがにそれをすると、相手もビビるかホントにケンカになりそうになります。それくらい精神的にまいっていた時期もありました。
まあ、彼らにとってそれらの言葉は、「元気?」くらいの感覚で使っていたのかもしれませんが、、、
そんな時期、どうしても納得いかず、色んな人に相談しました。
返ってくる答えはだいたい「俺も言われてる」「おまえだけじゃない」
そう、同じカメルーン人でも、お金持ちはだいたい何かをせがまれているんです。もちろんせがむ方も人を選んでせがんではいるようで、権力がある人にはせがまないなど、空気を読んでいるようですが、
しかも、たまに本当にあげることもあり、せがんでる側は、冗談交じりですが本当にもらえるかもと思いながら、言っているようですね。
ただ、僕には言いやすいようで、毎回言われます。絶対あげませんでしたが。
まあ、そんなやり取りを経て、外国人である自分だけが特別に不当に扱われているわけでないと知り、少し気持ちが和らぎました。
そもそも、日本にいた時も、自意識過剰で被害妄想もひどかったなって思います。
そういった自分だけがと、自分視点で物事と接していたらストレスたまりますよね。
カメルーンで学んだ事で、大きなことは、みんな大きな違いはない、みんな一緒、肌の色や言葉、立場が違うだけ、人間としては差はあまりない。
なんていうか分かりませんが、他を理解することを学んだと思います。
ちょっと苦しいときは、ちょっと立ち止まって、なんで今苦しいって感情があるのか自分を見つめ、周りはどうなのかと外に視野をもち周りの中の自分はどうなのかを考えることが良いと思っています。
他を視る
no.11 どうしても割り切れなかったこと 調理
家の画像を見ていて、思い出しました。
僕はトイレの中で調理していました。
自分が何も気にせず、食べたいものを食べるためです。
先の投稿で部屋を紹介しましたが、僕のプライベートスペースは、4畳半の部屋とトイレのみです。これが僕だけの空間でした。
部屋を出たら同居の拾い子の女の子が寝てるし、となりの部屋にはカメルーン人マダムが寝ている。家の外に出ると庭と炊事場、前の家の人やその使用人が住んでいる。それより先は村の人が住んでいる。正直、僕とその他では生活レベルに大きな差があった。
で、任地に来た当初、僕は家の外の炊事場でガスを使って調理をした。それを知って、村の人が集まってきた。
初めの頃は日本食を紹介したいとか調理したものを振舞ったりしたが、それがだんだん毎回になったりしてきた。もちろん食材も自分で買っているわけなので、お金のことが頭をよぎったり、食材を買うにも躊躇するようになった。僕は彼らの為に調理しているわけでないっと。
そして、ガスボンベについても、隊員仲間からは3か月は普通に使えるよっと聞いてたのが、2週間ほどで無くなってしまった。
僕が活動で外に出ている間に、近所の人が勝手に使っていたようです。使わないように言ってたけど、黙って使っていたようで、これはかなりショックでしたね。
作るの辞めました
そんなこんなで、外で作るのを辞めました。というか、それから半年くらいは、全く調理をしませんでした。
前の家の人が分けてくれた料理しか食べない。
料理も毎回くれるわけでないので、耐え切れず近所のパンを買うようになる。
結構この時期は外に出るのも嫌になっていた時期ですね。結構痩せました。
ただ、この時に前の家の人にお金出すから毎回料理ちょうだいって言っても、お金は受け取ってくれなかったな。なんでかな?食事を分けるのにお金は関係ないってことだったのかな?でも、結構くれない時も多かったから、お金を払うって言ったのに、かたくなにお金は受け取らなかったな。んー、真意はわからない。
トイレの中で作ろう
ただ、そんな生活も半年が限界で、自分だけの空間、トイレで調理をすることにしました。
まず、ガスコンロ。これは狭いから置けませんでした。
次に灯油で火をつける七輪のようなもので調理をしました。これも失敗。一酸化炭素中毒になりかけました。
最後は、やはり電気コンロ。うちの村は停電が多いから候補からは外していましたが、これが一番良かったです。電気があるうちに調理する。たまに途中で停電になった時はあきらめ、そのまま食べる。もうそれでも自由に好きなものが食べれるという状況に満足していました。
結果、この状況は、日本に帰るまで続き、外で調理する、自分と村人の違いを割り切ることはできませんでした。自分の弱さ、他人を受け入れるということがあまりにできていなかったと思います。反省。
しかしながら、2年間ここで生活すると思うと、その距離感を自分の中でどう処理するかがとても難しかったです。
no.10 僕の住んでいた村紹介1
そろそろ僕が2年間住んでいた村バチェンガを紹介します。
バチェンガは首都から車で2時間ほどの距離にあり、大きく見ると16の村からなるバチェンガ市で、僕はその中心部に近いバチェンガ村に住んでいました。人口はおそらく、バチェンガ市で16,000人、バチェンガ村で1200人ほどらしい。いやそんなにいたかな?
村のまちなみ
まー、なんもない場所です。簡単に作った家ばかり。のんびりとのどかなところです。
一番栄えている場所に行けば、ある程度お店はあります。食材も意外と揃います。歩いて30分くらい、大抵はバイクタクシーに乗って移動していましたが。
住んでいた家
僕が住んでいた家です。あー懐かしい。さらに僕はこの家の一室だけが僕のプライベートスペースでした。
そーいえば、僕が初めてバチェンガに訪れた時、予定していた家が突然日本人を受け入れないって言い始めて、家どうしよっかなーって途方にくれたことあったなー。
結局この家に泊めてもらった時、この家のマダムが優しかったから、「ここに住みたい」って伝えて決まった感じだったな。結果カメルーン人と同居することになり、しんどいことも良いこともあったな。なんてその時のことを思い出しました。
で僕の部屋です。
これは1年以上経過した時の写真。ハンドメイドやせっけん作りなどの実験で部屋がごちゃごちゃしてたな。
ちょっと角度を変えて。カバンづくり頑張ってたな。
で、勉強机。ここで停電しても、ローソクや充電ライトなどで、勉強や資料作りを頑張ってました。
まあ、わかる通り、4畳半くらいの場所に住んでいました。いや、学生やん!みたいな感じでした。他の隊員は一軒家に住んでいたのに。。。
うらやましくもあり、まあ、でも慣れるもんで。
そして、トイレ兼水浴び場(シャワー)です。
もちろん、水は出ません。
下の大きなバケツに井戸の水を溜めて、水浴びしていました。
しかも、たらいの上に立ち、体に水をかけ、その水をもう2.3回使い、その後洗濯の水に使い、トイレに流していました。もちろんトイレも水は出ません。
そんな感じで、きれいな水はとれも貴重でしたね。
まあ、そんなこんなで何とか2年間ここで過ごすことができ、良かったです。
no.9 カメルーン料理は意外と美味しい たべもの2
アフリカ料理って聞くと、美味しくないイメージありませんか?
それはたぶん正解です。実際僕はモロッコ料理はおいしいと感じませんでしたし、他の東アフリカの料理もおいしくないと同期隊員から聞いたこともあります。
しかし
カメルーン料理はだいたい美味しいです。どの家庭に食べに行っても、大抵満足できます。カメルーンびいきかもしれませんが、料理は本当に僕好みです。
フランス領だったからか、ダシや塩、乳化など、美味いものを作ります。
ちょっと紹介
アリコ=豆のスープに、食用バナナプランタン。
プランタンはバナナですが、甘いというよりイモに近いかな。甘さも少し残っているがやっぱりバナナ。なんとも表現できませんが、食事に合うバナナです。これもマニョックと同じようにカメルーンの主食の一つです。
このプランタンを揚げたり、焼いたり、蒸かしたり、いろんなバリエーションで食べます。
あまり覚えていませんが、たぶん牛の肉、もしかしたらハリネズミの肉のスープ。
これがまた絶妙な味。肉のうまみと未精製のパーム油、香辛料、玉ねぎ、にんにくなどで味付けをした日本では食べれない味。これもまた食べたい料理ですね。
僕が住んでいた村は内陸でしたが、川魚が獲れます。川魚なので多少淡白な味わいなので、大抵香辛料や少し辛いソースなどで調理します。カメルーン人は辛いのが好きな人が多いので、大抵辛い味付けです。辛い=美味しいと思っているところのありますね。
もちろん辛いのが苦手なカメルーン人もいます。ほんと人それぞれ。
そして、これ、プルーン。
日本のプルーンを想像してはいけません。マジで酸っぱいです。そして焼いて食べます。ほんまに何故これを食べるの?って、初めは思いました。ただただ、ねちゃねちゃした暖かく非常に酸っぱい食べ物。これはおやつ?ごはん?どの分類なん?みたい感じです。
ただ、、、慣れるんです。そして欲しくなるんです。
ただただ酸っぱいプルーンが、何故か食べたくなってました。
カメルーン人もこれは結構好きなようで、村の人はみんな好んで食べてました。
以上、簡単な紹介でした。
no.8 国民食マニョック(キャッサバ) たべもの1
カメルーンの国民食、いや、世界の国民食マニョックを紹介します。別名キャッサバといい、あのタピオカの原料でもあります。
しかも、マニョックは収穫面積がなんと世界6位(小麦、トウモロコシ、イネ、サトウキビ、大豆に次ぐ広さ)。そしてほとんどが食用として使われ、アフリカではトウモロコシに次ぐ第 2 の主食となっています。
イモに近いかな
見た目でいうと、長芋に似てるかな
でも味や食感は、なんだろサトイモかジャガイモに近いかも。
かなり美味です。
むくと、中は白いです。これはマニョックの品種の甘味種なので、生でも食べれます。
味はみずみずしいイモです。
逆に苦味種は毒性が強いため、天日干しや水に長時間つけて毒を抜かないと食べれないです。そのため、マニョックは粉状にし、お湯を入れ、饅頭のようにしたり、チマキのようにし食べることが多いです。
食べ方
蒸かしたマニョック、僕はこの食べ方が一番好きです。どのスープに合います。スープによく絡み、マニョックの味もしっかりと楽しめます。ちなみにスープはアラシッドスープ、落花生のスープです。これは最高の組み合わせです。
マニョックの筋がある感も特徴的です。
そして、これです。カメルーン隊員なら、切っても切り離せない思い出の品です。
なんせ臭い、そしてどこでも売ってる。道端、レストラン、バスの中、信号待ちの時に来る売り子。
タクシーの中で他の客が大量に買ったら、おいおいマジで勘弁してくれよ!と思うような品です。腐ったような発酵したような独特な匂いがします。
売られている時は、こんな感じです。バナナの葉やったかな?その葉っぱに包んで縛って発酵させる感じです。長いチマキみたい。一種の保存食でもあります。しかし、発酵しすぎたものは、めっちゃ酸っぱいです。
これを好きな隊員もいましたが、大抵は選んでは食べないですね。
色々と思い出深い食べ物マニョックでした。
no.7 マラリアは怖い
一説によると、世界で一番人間を殺しているといわれる『蚊』
それは蚊を媒体として様々な病気が伝染するからです。
マラリアもその一つ、日本ではマラリアは撲滅しましたが、途上国ではまだまだ発生数の多い病気です。もちろんカメルーンでは日常のごとく、マラリア感染はあります。しかも死亡率が高い熱帯性マラリアが流行しています。子供やお年寄りなど抵抗力が弱い人は亡くなります。カメルーン人の死亡原因の上位は、病気だと思います。マラリアもその一つの要因。ただ、僕がいた時にはエボラ事件もあり、ちょっとヒヤヒヤしたことも覚えています。
協力隊ではどうなの?
青年海外協力隊は色んな面で守られているため、死亡例というのは少ないですが、死亡状況で一番多いのは交通事故。滅多なことで病気で死ぬことはありません。
しかし、僕がカメルーンにいた2年間で2人マラリアにかかっていました。それは、もー、悲惨です。発症してすぐに40℃近くの高熱。事前に渡されている応急薬を飲んでも1週間は高熱。食事がまともにとれるようになるのも2週間以上かかり、体力が回復するのに1か月。2年間の限られた活動期間の1か月も奪われるのは本当に悲しいです。
ただ、熱帯性マラリアは応急処置がなかったら、ほぼ死ぬといわれていて、守られている協力隊が死亡することはほとんどありません。しかし、一歩処置が遅れれば命の保証ができない病気です。
本当になりたくありません。
マラリア対策として
蚊よけスプレー
蚊に刺されないために、まずは蚊よけです。
日本には売っていないような強力なもの。薬局で買えます。黒い方は匂いが強烈で、蚊が寄ってくる気配がありません。
次に蚊帳
日本ではあまり見ることは無くなりましたが、協力隊には全員蚊帳が支給されます。
蚊帳の中は、カメルーンで唯一の安心スポットです。天使に包まれている安心感があります。
ちなみに僕は今の日本の生活でも蚊帳を使っています。命に関わる病気の無い日本の蚊でも刺されると睡眠の邪魔になるので、蚊帳は本当におススメです。
マラリアにも耐性ができる?
ただ、カメルーンに生活している中で、カメルーン人がマラリアになったということをよく聞く。
しかし、その本人はあまりしんどそうでない。
そこで、ある協力隊隊員が配られているマラリアの検査キットをその彼に使ったそうだ。その結果陽性。本当にマラリアにかかっていたようだ。ただ当の本人はちょっとしんどい風邪って感じで命の危険はないと言っていたそうだ。
僕の村の人も、よく「自分はマラリアだ」と言っているが、それは本当なのかもしれない。
小さなころから色んな病気にさらされてきたら、免疫力って強くなるんだな。
たぶん、今の日本人や西洋医学にどっぷりの人種は、免疫力が弱くなっているだろうなっと感じました。
本当にカメルーン人はタフです。